渡邉格 翠山大学ZINEに寄せるエッセイ
- Mariko Watanabe
- 19 時間前
- 読了時間: 9分

こんにちは、女将の麻里子です。
さて、設立準備中の翠山大学のクラウドファンディングにご協力いただいた皆さま、設立へ向け応援していただいている皆さま、本当にありがとうございます!
翠山大学は2027年開学を目指して2025年に文科省に大学院大学設置認可を申請したものの、一部基準に適合しないとの指摘を受け、改めて2028年4月開学という新たな目標に向けて準備を進めています(詳細はこちら)。
ちなみに準備資金はまだまだ必要な状況ですので、引き続きご寄付にご協力をお願いします。
ところで現在、翠山大学事務局はクラウドファンディングの返礼品としての限定ZINE「私たちはシナリオを書き換えられるのか?」を作成中で、タルマーリー渡邉格・麻里子も参画メンバーとしてエッセイを寄稿しました。
その原稿締め切りが2025年12月末だったため、年末は2人ともこのエッセイの執筆に力を注ぎました。テーマは「翠山大学に関係するものであれば自由」とのことで、私たちがまさに今感じていることを書きました。多くの方にフレッシュなうちにぜひ読んでいただきたいので、ブログに公開いたします。
下記は渡邉格の文章、次の記事が渡邉麻里子の文章です。
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限定ZINE「私たちはシナリオを書き換えられるのか?」に寄せるエッセイ
渡邉格
1.自分事
昨今の排外主義を心苦しく思う。許容ができないことは、余裕がないことの裏返しだ。人間は本来、歳を重ね、経験を重ねるほどに何でも楽しむことできるようになり、余裕が生まれるものではないか。
しかし今の状況を見ると、ただ歳をとれば経験が蓄積されるわけではなさそうだ。それはいかに物事を「自分事」にしてきたか、による。つまり排外主義は、すべてを他人事にしてきた結果に思える。私自身を振り返ってみても、他人事にしてきたことは多々ある。まずは自分のことを見直そう。そんな小さな物事の積み重ねが、社会を軌道修正していくだろう。
私は鳥取県智頭町という人口約6千人の過疎の町で事業経営をしている。修業を含めて20年以上、パンやビールといった発酵食品を自然界に棲む野生の菌を使ってつくってきた職人である。
父親が学者だったこともあり、幼い頃は研究職に憧れていた。そして、大人になる頃を想像すると、科学技術の進歩と共に理想的な社会ができ上がり、自由になれると思っていた。今、確かに世界は大きく変わったが、社会はとても息苦しく、理想や自由には遠い。
技術の進歩について、例えばパン製造現場では次々に新しい機械ができてより作業が楽になった。製粉会社は、より安定して作りやすい小麦粉を開発してきた。そして(私は使用しないが)化学的に合成された添加物により、失敗しない生地づくりが可能になった。さらには、パン生地を作らなくても、冷凍された生地を仕入れて解凍して焼くだけという方法もとることができる。こうして労働が圧倒的に楽になった一方で、仕事がつまらなくなったことも事実だ。
この裏には、誰もがマニュアルを覚えれば一人前になれる仕組みがある。何日か研修すればアルバイトの若者でも一通りの仕事ができるようになる、そんな店もあるだろう。それは利益を最大限生み出せるシステムかもしれないが、人間を代替可能な存在にしてしまった。
私の経験上、取り替え可能な人材として扱われると、自己の存在意義を見失う。だから、確かなものを信じたくなる。自分の労働を金額で正当に評価してほしい、つまり「時間をお金に変える」という感覚が強くなる。そして、定量化した評価の中で、未来さえも年収で見てしまう。この直線的な時間の先に見えるもの…。それは、若い人にはとてつもなく遠く感じ、不安が掻き立てられる。一方で、年老いた人にはもはや夢も希望もない。そして誰もが、自分が役に立っているのか知りたくて、承認欲求が高まるのではないか。
私も若い頃は認めてもらいたくてガムシャラに働いた。そして他者からの評価に縛られていた。54歳になってようやく知ったのは、結局「自分で意思決定をしてその結果を受け止める」ことを繰り返せば、自己を肯定できるようになるということだ。そうして他者との比較から自由になったように思う。
一方で、失敗したくないからとすべてを他人事にしていると、問題に対してネガティブな印象が強くなり、さらに失敗を恐れるようになってしまう。人のせいにして自分で責任を取らず、排他的になっていく。こうした一人一人の態度の集積が、今の社会の姿ではないだろうか。
どんな結果であれ、自分事として受け入れることが大事だ。どんなに苦しいことでも自分のこととして乗り越えれば、ポジティブな経験となる。そうなれば自分から切り離すことはできない。その蓄積によって、あらゆることを自分の文脈で解釈できるようになる。そうなるとどんな物事にも愛着がわき、自分を大切に思えるようになる。「幸せの青い鳥」はどこかにいるのでなく、自分の内部にあるのだ。
2.イメージを自分のものに
あらゆることを自分事にしたつもりでも、行動しなければ意味がない。行動しないと共感だけになる。身体性が伴わない思考のみの共感は、これもさまざま問題を引き起こすように思う。例えば、総理大臣による他国への挑発に国民が賛同している昨今の現象など…。実際に戦争の悲惨さを体験している人々が多い時代には、そのような政府の行動は批判の対象になっただろう。戦争を知らなくても、身体を動かして怖い思いをしたり、歴史に興味を持って様々な人と関わったりしていれば、個人の手に余るような問題もイメージできるのではないか。
思考に身体性が伴わないと、全体像を描く能力が欠如するように思う。私たちはコミュニケーションにおいて、自らの経験や興味を使ってイメージを作りながら理解している。身体性を伴わないイメージは論理的かもしれないが断片的で、全体として問題が生まれる。それはグレーを許容しない、白黒をはっきりつけようとする、変化に対して臨機応変に対応できないものとなる。
全体をイメージできる力をつけるのは、今の教育システムでは難しいだろう。一般的な学校教育では、物事を分節して段階を踏み、論理的に理解を深めていく方法をとるが、これでは本当に頭がいい人でない限り、細部にこだわり全体性を見失ってしまうのではないか。
ここで私がいうイメージとは、綿密な設計図という意味ではない。むしろ身体感覚で描く、ボンヤリとした絵だ。世界全体の中で自分を位置付けて動きを決めていくための、地図のようなもの。
例えば職人は、仕事の全体の流れを掴もうと意識しながら、細部では先輩の真似をする。全体イメージの中に自分の立ち位置を確認しながら、身体に叩き込んでいく。パン屋の場合、生地作りから焼き上げまでの流れを掴んで、その流れに沿った道具の位置、先輩の動き、汚れる場所など仕事の癖、などを覚えていく。先輩の邪魔をしないように、自分の立ち位置をマッピングする。そうして仕事の段取りに沿って動線を作れるようになり、最終的にはイメージを作る癖がつく。だから、一流の職人は空間把握能力が高い。
一方で、空間把握ができても論理的に言語化ができないと、現在という空間軸には強いが、変化していく時間軸に弱くなる。良くも悪くも全てを否定する頑固親父のようになってしまう。だから、見方が偏らないようにと意識する職人は、知識や教養を大切にする。それらはさらに大きなイメージを作ることに寄与する。つまり、教養を身につけることは身体知と両輪なのだ。
イメージができるようになると、意思決定が早くなる。そして行動できると、自分の中の「幸せの青い鳥」を早く見つけることができる。
3.心を育てる
失敗を恐れる人は多いが、しかしネガティブな経験が素晴らしい結果をもたらすことが多い。私は2022年に大怪我をしたことを機に、すべての製造を弟子に任せ、2年ほど講演など対外的な仕事だけをしていた時期がある。日々の仕事がない分、体力的には楽で、当初はその自由を謳歌したが、そのうち喜びがなくなっていった。講演がうまくいかなかったり、現場仕事のアラが気になったり、そういう細かいことの蓄積で未来へのイメージが暗くなり、焦りを感じることが多くなった。様々なストレスを抱えながら過ごしていくうちに、身体も心も辛くなっていった。
私は若い頃から何に対しても、やる気が起きない性質だった。特にやらなければならない予定がないと、だらけてしまう。だから、現場から離れて極端に身体を動かさなくなった。そのうちに手足が痺れ、目が激痛で開かなくなり、もはや生きているのがしんどい。鬱を伴って感情が劣化していった。結局、2023年に重度の糖尿病が発覚して入院することになった。
しかし闘病生活は自分を見直す最も良い契機になった。そして自分の感情をいかに蔑ろにしてきたか…ということに気づいた。感情の源流にある「快、不快」という信号に気づき、それが身体と密接に関わっていることを体感した。
今年2025年から、私は職人に戻った。糖尿病で極度に痩せ細り筋肉が落ちていたから、最初は身体を動かすのが苦しかった。しかし「快」と感じるものだけを選択して行動することにした。今では朝起きると清々しい。そして身体を動かし始めると、目が覚めてやる気のスイッチが入る。身体と感情は密接につながっている。
2年前に入院した時に医師から「今後はインスリン注射や投薬が欠かせない」と言われたが、今では薬も飲まず、食事や仕事で心身を整えることで血糖値上昇を抑えることができるようになった。
感情は行動の原点だ。感情を適切に保つためには身体を整えておく必要がある。情報を曲解せずに受け止めるには、身体を整えて快い感情でイメージすることが大事なのだ。このイメージを膨らませるために、知識や教養といった情報の蓄積が必要だ。さらに五感を使って、身体の外部の情報を感じる力とそれを自分の文脈に落とし込む力がいる。そしてこれらを統合したイメージこそが「心」なのだと思う。
つまり「心」とは、
『身体(五感)からの情報を、蓄積してきた情報(知識・教養)や今の興味関心で取捨選択をし、その時に湧き上がってくる感情に影響されながら意識的に描き出したイメージ』
である。
このように「心」が多くの要素で成り立っていると思うと、何か大変な感じがするかもしれない。しかし最も重要なのは、日々の暮らしを正して心身を整えることだ。そうすれば、感情や気分の浮き沈みによって判断を誤ることがなくなる。何か問題が起きても、知識をつけたり行動したりして、責任をもって一つ一つ乗り越えていけばいい。ネガティブなことでも、すべて「心」の栄養になるのだから。そして「心」が育ち広がっていくといつの間にか、時間をお金に変える思考から逃れられるだろう。
私が描く翠山大学のイメージは、職人仕事を通して「心」を育てる場である。
今の社会は、感覚が鋭いほど息苦しく感じるだろう。そんな人々が、感覚を鈍らせるのではなく、目指す方向を変えて更に感覚を研ぎ澄ませることで、未来のシナリオを書き換えていけるのではないだろうか。




