【特集】ヤマ、サト、シマに生きる学び に、タルマーリー女将・渡邉麻里子が寄稿しました。
もう20年近く前になりますが、私が大学生時代に所属していた環境教育学ゼミで、この月刊社会教育を読んでいました。なのでこの度、恩師である朝岡幸彦教授から寄稿を依頼され、とても感慨深いものがありました。 大学で学んだエコロジカルな地域内循環を実践したい!と、社会に出て悪戦苦闘…、そしてタルマーリーという挑戦を続けてきて、こうして今、母校の学生が私の原稿を読んでくれることになるとは!
以下、編集部の了解を得て原稿をブログに掲載します。 ちょっと長いのですが、恩師への愛を込めて書いた思い入れのある文章、良かったら読んでみて下さい☆
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『田舎のパン屋が見つけた 生かされている実感』 渡邉麻里子
◆わかることは変わること
「わかるってことは変わることだよ。何かを学んだとしても生き方が変わらないのなら、それはわかったことにはならない。」 今から約20年前、東京農工大学農学部の学生だった頃、この「月刊社会教育」の編集委員である朝岡幸彦教授に言われた言葉だ。 東京で生まれ育った私は、小学生の頃からずっと考えていた。地球規模の環境問題を改善するために、自分にはどんな仕事ができるだろう。 砂漠緑化、動物保護、エコロジカルな農業…。 環境問題へのアプローチは様々だが、まずは人間の思想が変わることが重要ではないか?そう思い始めて門を叩いた環境教育学研究室の教授が、朝岡先生だった。 わかることは変わること。しかし実際に人間の多くは「わかっちゃいるけどやめられない」。ではどうしたら自然環境や社会問題への危機意識を持ち、それを解決するために生活や仕事の仕方を変えられるのだろう…。 そんな問いへのヒントが今、少しわかりかけている。その理解に力をくれた人生経験が二つある。一つ目は母親になったこと。二つ目は事業主になったことである。 そういえばあの頃は「わかる→変わる」という順番が当然と思っていたが、現実の人生では「変わる→わかる」ことばかりだった。頭でよく考えてから身体が動くのではなく、直感に従ってすぐさま行動し、後から意味づけをして納得する…ということを繰り返してきた。 現在、母親歴11年、田舎のパン屋「タルマーリー」の事業主歴8年。そんな私の想いを、率直に語っていこうと思う。
◆資本主義による分断
私は高校3年のとき、受験の重圧と進路に悩んだ末、肺結核を患った。なぜ私は生きているのだろう。私が生きる意味はどんな仕事をしたら見出せるようになるだろう。 そんな問いを抱え出口が見えずにいたあの頃の私を見つめてみると、今ならその悩みの根本がなんとなくわかってくる。 小学生の頃から「大草原の小さな家」シリーズを愛読していた私は、大自然の中で家族が力を合わせて生きる姿に憧れていた。家作り、狩猟や農耕、ハムやチーズなど保存食も手作りする暮らしにワクワクした。対照的に私の家族は、東京で何の生産手段も持っていなかった。父は会社員、コンピュータの営業マンである一方、母は生協の組合員として社会運動に取り組んでいた。そんな母の問題意識のおかげで私は今の事業をしているのだが、あの頃は“働く”とはどんなことかうまくイメージできず、恐怖感すら覚えていた。父の仕事ぶりを見ることはできないし、それに父の収入と母の社会運動の財源はどう繋がるのかわからない。メディアでは自然環境破壊の危機が叫ばれているが、父の仕事はどんな社会貢献をしていて、母の社会運動は問題の根本的な解決になりうるのだろうか…。 今こうして自分が生産手段を持ち事業主となって初めてわかったのは、会社員として自らの労働力を売る働き方では、頭と心と身体、つまり知識と精神と行動が分断されてしまう、という現実だ。私はあの頃、そんな生き方に不安を感じていたのではないか。 それは個人から発する問題ではなく、この資本主義システムが社会のあらゆるものを縦横に分断してきた結果である。縦は時間軸、つまり、過去、現在、未来の連続性。横は様々な社会の連続性であり、例えば労働と遊び、生活と教育、思想と稼ぎ、など。これらを断ち切ることで消費を増やし、更に資本の論理を推し進めることで格差社会が進んでいるのではないだろうか。 当時はこのような言葉に整理できていなかったが、この分断に得も言われぬ不安を感じていた私たち夫婦は、それを繋ぎなおす生き方への模索を始めた。そして偶然にも、そんな生き方にヒントを与え続けてくれる存在に出会ったのだ。つまりパンづくりとは、菌という目に見えない存在と日々対話する仕事なのである。
◆2本のワインと3回の移住
夫である渡邉格(イタル)とは、新卒で就職した農産物の会社で出会ったのだが、会社員としての生き方に悩んでいた彼はある日突然、夢に出てきた祖父のお告げにより、なぜかパン職人になることを決意した。そして私たちは将来田舎でパン屋を開こうと会社を辞め、独立に向けて修業を始めた。その翌年の2003年、恩師である朝岡先生を立会人として結婚式を挙げた。このとき2本のワインボトルを結婚証明書に見立てて、約80名の列席者にサインしてもらった。 『このワインのうち1本は、将来、私たちの夢であるパン屋オープンの日の乾杯のために…。そしてもう1本は、いつか生まれてくる私たちの子どもが10歳になったときに、コルクを抜きます』 そして今、この2本のワインは空き瓶となり、鳥取県智頭町の家に飾ってある。家の前には田んぼが広がり、目線をあげるとどこまでも杉の山が続くこの谷あいで、私たちは小学生の娘と息子と、家族4人で暮らしている。 智頭町は人口約7400人、面積の9割以上を森林が占める、鳥取県の中でも過疎地域である。まさかこうして日本で一番人口の少ない鳥取県に住むことになるとは、夢にも思わなかった。 実は私たち、この8年間で東京→千葉→岡山→鳥取と3回も移住し、その度に店を立ち上げてきた。ワインの1本目は千葉で、2本目はここ智頭でコルクを抜いたわけだ。 正直、生まれ育った東京を離れて生きていけるのか、怖かった。それでも1歳の娘を抱き勇気を振り絞って房総の田園地帯へ移住し、2008年にパン屋を開業した。夫婦の夢の結晶である店は、イタルとマリコで「タルマーリー」と名付けた。それから息子が生まれ、良い隣人にも恵まれ楽しい日々を過ごしていたとき、突然激しく揺れた。2011年3月11日、東日本大震災と福島第一原発事故。これを機に生き方を根底から問われ、悩みに悩んだ末に西日本への移住を決心した。 そうして岡山県で営業を始めて1年後、イタルは『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」 』(講談社)という著書を出版した。思いがけずこの本はロングセラーに、更に翻訳された韓国ではベストセラーとなり、国内外から店に足を運んでくれるお客様が増えてきた。それにも関わらず、私たちはこの店を3年半で閉め、昨年智頭町へ移転した。山間で廃園となった保育園を改装し、今度はパンだけでなく、地ビール醸造とカフェの3本柱で事業を集大成したいと考えたのである。
◆「菌本位制」で辿り着いた智頭町
もちろん、3回の移住は気まぐれではない。一言で言えば「菌に導かれて…」ということである。「腐る経済」ではこれを「菌本位制」と呼んでいる。 一般的なパンやビールなどの発酵食品は、買ってきたイースト菌を使って発酵させるのだが、タルマーリーでは「借菌」せずに野生に棲んでいる天然の菌だけで発酵させるというポリシーを持っている。これは別に偉そうな発明ではなく、ただ単に昔ながらの製法を踏襲しているだけのことである。 資本の論理で効率よくお金を稼ごうと思ったら、イースト菌を使って安定的にパンを作る方が正解だ。しかしその真逆をいく天然菌のパン作りは、気温や職人の精神状態などに左右され失敗も日常茶飯事だ。それでもイタルは、創造的で楽しいからやめられないと言う。彼は菌から様々なメッセージを受け取ろうと、人間本来の鋭い五感を呼び覚まし、パン職人としての観察力を高めてきた。 そうしてわかってきたのは、天然菌で良い発酵をさせる第一条件は、化学物質の含まれていない綺麗な水を使うこと。そして綺麗な水が手に入る場所とは、人口が少ない、豊かな森に恵まれた里山なのである。
しかし水だけではない。良い発酵にはそれを取り巻く地域社会のあり方も重要だ。イラスト「豊かな里山でこそ実現できる発酵と地域内循環」はタルマーリーの描く大きな夢で、これには地域の協力が必要不可欠になる。 私たちが考える良いモノづくりとは、ただ美味しいモノを作るということではない。菌の声を聞きながら、あらゆる分断を繋ぎなおし、地域の循環をつむぎなおし、事業を通して社会問題に取り組んでいきたい。これを体現できる場所として、私たちは智頭町に大いなる可能性を感じ、最後の移住先としてすべてを賭けることにした。 現在借りている旧保育園は公共施設で、貸主である那岐地区振興協議会が廃園を活用する方法として、タルマーリーを誘致してくださった。それをバックアップしていただいたのが寺谷誠一郎・智頭町長だ。町長は“本物”を重視し、意欲ある町民のアイディアを町政に生かす方針だ。町長が指揮する役場の素晴らしい機動力のおかげで、タルマーリーの夢はこのわずか1年の間にもどんどん実現している。 例えば、天然菌による発酵は自然栽培(無肥料無農薬栽培)の素材を使うとうまくいくと伝えたところ、すぐに役場が率先して自然栽培の普及活動を始めてくれた。そして早速に地域の方々が、タルマーリーで使う食材(ビール原料のホップや、ピザソースのトマト、サンドイッチの野菜など)の自然栽培に挑戦し始めてくれている。自然栽培農地が広がれば肥料や農薬による環境汚染が軽減し、里山の生態系は保全される。そうして地下水が綺麗になれば、パンやビールもさらに良い発酵をする…。タルマーリーはそんな環境保全型地域内循環の鍵となる農産加工業者でありたいと考えている。
◆頭と心と身体が繋がる教育
イタルがパン職人として菌と対話している傍ら、私は出産や育児を通し、母親として様々なことを学んできた。娘は大病院で出産したのだが、そのときは母としての身体能力を活かしきれずに吸引分娩になってしまったことが悔やまれ、モヤモヤとした思いを抱えた。だから次は必ずや自然分娩がしたいと、息子は自宅で、助産師さんに来てもらって出産した。日々の生活と分断されずにリラックスした空間で、自分の力を最大限発揮できた出産に、私の心は豊かに満たされた。 今でこそ自宅出産は珍しいケースだが、日本で病院出産が主流になったのは1965年頃で、それ以前はお産の場は日常にあった。自然のリズムでモノをつくったり出産したり…。きっと本来、人間の暮らしはこういう豊かな経験の連続で、頭と心と身体が滑らかに繋がって得られる達成感が生きる自信につながっていくのだと思う。 一方で、いざ菌や子どもという「野生」に対面したら、私も夫も都会育ちゆえの身体能力や感覚の鈍さにぶち当たった。大学まで学んできたことはあまり通用しない、むしろ勉強して身に付けた知識や常識といった鎧を脱ぐ作業に長い時間を費やさなければならなかった。 自分自身も含め、頭と心と身体、すなわち知識と精神と行動が分断されている人間が近年増えているのではないか、と感じるようになったのは、従業員を雇用するようになってからだ。「タルマーリーの技術を習得したい」という若者とパンを作ってみると、農家や職人の家に生まれ育った人はいい仕事をする一方で、事業理念に共感してくる高学歴の人は身体がついてこれずに苦労する場合が多い。言うまでもなく、頭と心と身体がうまくかみ合わなければ良いモノづくりはできない。 田舎には、農作業や山仕事など、頭と心と身体が繋がっていないとできない仕事がたくさんある。この地域の方々に大工や庭仕事を手伝っていただくと、林業の町で育った彼らの技術や身体能力、仕事の速さにただただ圧倒され、自らの非力を痛感するばかりだ。 このような経験から、問題意識は我が子の教育にも及んでいった。できれば将来は彼らにも田舎で職人的な仕事をしてほしいと思うと、机に座って知識をつけるだけではない、自然の中で遊びながら頭も心も身体も繋がる学びを経験できる子ども時代を過ごしてほしい。そう強く願うようになった私たちにとって、智頭への移住の決め手は、全国的にも有名な「森のようちえん まるたんぼう」の存在だった。
◆生かされて生きていく
「森のようちえん まるたんぼう」には園舎がなく、智頭の資源である森林そのものが園のフィールドである。夏は川で泳ぎ、冬は雪遊び…という風に、子どもたちは毎日森で思いっきり遊ぶ。園のスタッフは安全確保をしながらも余計な口出しはせず、子どもたちを見守ることに徹する。 何か遊具がないと遊べなかった息子が、「まるたんぼう」で1年を過ごすと高い木に登れるたくましい男の子に変貌した。特に食べられる野草に興味を示した彼は、春には山菜、秋にはむかごなど、夕食のおかずを収穫してきてくれた。 智頭での学びの場は森のようちえんだけではない。我が子はタルマーリーという日常の場で、両親や従業員が働く姿を見ている。それに地域の人が山や田畑で働く姿も見ているし、近所のおじさんに魚釣りに連れて行ってもらったりもする。米や野菜をもらうと、パンや地ビールをお返しする。父はパン作りだけでなく大工もできるし、山に行けばおかずは採れるし、だいたいのモノは自分で作れる…という暮らしの原点を感じながら育っている。 仕事、生活、遊び、思想…。それらが分断された社会で育った私にとって、全てが繋がる智頭の里山で「生きる」というシンプルな営みをイメージできる我が子が頼もしい。それこそが彼らの財産であり、将来はこの資源と自らの能力を活かして創造的な仕事ができたらいいね、と思う。もちろん彼らの選択肢は無限に広がっているのだが、最近ではパンやビール造りを継いでくれたら嬉しいな…と思うようになった。 彼らには、私が歩んできた道のさらにその先へ進んでほしい。私の先祖が田舎から東京へ出て労働力を売る生き方を選び、それから時を経て私はその限界を感じてまた田舎へ戻り、農産加工の事業主として生産手段を取り戻した。だから子どもたちには、親が築いたこの小さな土台を足掛かりに、さらに自然と共に生きる技を取り戻して、豊かに暮らしてほしいと思う。 都会の風が乾いていると認識したのは、田舎で暮らすようになってからだ。森から吹く風は水気を含み柔らかい。菌と子どもが呼び覚ましてくれた私の野生は、智頭の豊かな森に抱かれて、自然との繋がり中で「生かされている」という感じを覚えるようになった。 なぜ私は生きているのだろう。それは永遠のテーマだが、人間はわかってから変わるわけではなく、自らの意志から生まれたわけでもない。私たちはこれからも、変わってからわかり、そして生かされているから生きていくのだろう。 智頭でタルマーリーがこれからも生かされるように、私たちは精一杯良いモノづくりを続け、これからも生きる意味を探していこうと思う。
渡邉麻里子(わたなべまりこ) 1978年生まれ。大学在学中、日本、USA、NZの農家等で研修、食から環境問題に取組む道を模索。農産物の流通や加工の職場で販売を担当した後、夫婦でタルマーリーを開業。